なにせ、石という素材にしっかりと刻んでいるのだから、書かれていることは時を超えて知らせる意図をもって、消せない事実を刻んでいるに違いない。
だから、何気なく出くわす石碑に目を留めてみるのが面白い。
昨日、市役所から目と鼻の先の県庁で見つけた石碑は、山梨の基準点、「山梨県の経緯度標(1級基準)」
ちょうど今日は6月3日「測量の日」なんという偶然。(測量の日とは、こちらをクリック)
「6月3日測量の日と制定したのを記念し、国土交通省の指定を受け設置したもので、世界測地系に基づく位置を評している。
平成元年6月に設置した経緯度標から、平成27年6月に山梨県庁内の整備に伴い現在の場所を移設した。」
経度東経 138度 34分 10秒 4964
経度北緯 35度 39分 54秒 3202
標高 274.708m
おおお!基準の位置って変えちゃうんだ!とちょっと驚き。
私が働いている甲府市役所も、そして我が家も山梨の基準にとっても近い。
戯れだが、私がいる場所を山梨と思ってもらえば間違いない笑
そういえば、甲府市役所のそばにもひっそりと石碑が建っている。
何気ない道路の脇にある「山梨県道路元標」 (道路元標とは?こちらをクリック)
場所は甲府市中央1丁目。 甲府署北側の歩道。甲府市役所南側。
「山梨まで〇㎞」の道路標識。その基準点はここ。
裏に刻まれているのは
北東六六度三三分四十秒
距本標二十六米五十二糎
日本橋が東京の起点であることはあまりにも有名だけれど、山梨県の道路の基準がこんな場所だったとは!
山梨まで何キロはここときめられたのは大正8年11月。旧「道路法」により、それぞれの都道府県知事が決めたそうだ。
あまりにも普通に歩道脇にポツンとあるので10年くらい前にこれに気付いた時は、お墓かと思ったくらい。生け垣の間にある。
なんで甲府市役所と警察署の間に?と思われるかと思うが、当時ここが山梨県庁だったから。
最初の道路元標はとっても巨大な木柱で、その様子はとある写真集でも確認できた。ただ著作権の問題もあって、載せられない。
どうしようかと思っていたら峡陽文庫さんに載っていたのでお借りする。
写真の真ん中より少し左の柱がそれ。
これは今の市役所の南東の角あたり。写っている建物は甲府市役所ではなく、当時の山梨県庁。かつて甲府市役所の場所に山梨県庁があったのだ。
大正12年の甲府の市街地全図を見てほしい。愛宕山、甲府駅、舞鶴城が今と変わらないので今の地図に落とし込む場所の目安になる。
100年ほど前の甲府は平和通りはもちろんなく、道路もお城の形も違う。
今の山梨県庁があるところは山梨県立中学校と書かれている。
紅梅町、錦町、百石町ここ春日地区の自治会の名前にちゃんと残る旧町名時代の街の地図。
この頃のまちはどんなだったろうか。
ああ、見てみたい。
では、この机の引き出しを開けて、よいしょと入り込もう。
そして時計を100年前に設定してタイムマシンで…と、ネコ型ロボットがいれいいのだけれど、私の横にはネコ型ロボットはまだいない。
ということで市役所が持っている写真をあさってみた。
あるある。
これが明治10年に完成した初代山梨県庁
ギヤマン堂という異名もあったこの県庁。
福井、札幌など各地の庁舎がこの構造を模して建設したという堂々の姿。
正面に菊の御紋、左右に県章があしらわれている。明治という時代らしくこんな堂々とした風格を持つ。
道を挟んだところには西山梨郡警察署 甲府警察署。
現在の甲府署と同じ場所に明治19年に建てられた藤村式建築。
甲府市役所のところにあった山梨県庁は、昭和5年現在の場所に移った。
こんな建物があった甲府。想像できない。
ぼろくても、手狭になっても我慢して工夫して残せば価値になることを知らなかった時代だから仕方ないけれど、今これらの庁舎が建っていたら甲府のまちも違ったかな。
ついでに、お見せするこの写真は昭和38年のもの。
甲府市役所、山梨県民会館、山梨県庁。
どことなく今より街がぎっしりと詰まっている。
お城の存在感も薄く、ゆとりもないような。
いいか、悪いか。それは全くわからないけれどまちもその時々に変化するのだ。
今日は測量の日。変化したものも変化しないものもある。
まずは測量の日に君と僕の距離と、位置を確認してみよう。それは変わっていなければいいな。いや、むしろ、近づいていたらうれしい。
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