2019年、今年甲府市は130歳です。
2019年はこうふ開府500年と銘打っていますが、「甲府」が出来たのと、甲府「市」が出来たのはまた別のことです。なんだかこんがらがらないようにしなきゃ、ってことで、今日は甲府「市」が出来た時の事を説明します。
市制、町村制という法律ができたのは1888年(明治21年)のこと。その時から全国で次々と市制が施行されました。この甲府の地に甲府市が出来たのが、1889年(明治22年)7月1日。甲府市は全国では34番目、関東では4番目に誕生しました。市役所が開いたのは10月です。
東京や神奈川など、大都市があるなか、山梨県の甲府市が関東で4番目って、結構早いですね。
当時、天皇がその年に収穫されたお米を最初に天照大御神にささげて、御恵みに感謝するお祭り「神嘗祭(かんなめさい)」という祝祭日が10月17日であったため、日が良いということもあって、10月17日を市制施行の記念日としました。
その時は、今の甲府市の領域とは違いました。
ちなみに今の甲府市の市域は明治初年には171の町村が存在していました。下のリンクを見てください。
明治22年に甲府総町(こうふそうまち)、上府中総町(かみふちゅうそうまち)、増山町(ますやまちょう)、飯沼村(いいぬまむら)、稲門村(いなかどむら)っていう町が集まって甲府市となりました。
ちなみに旧町名として皆さんが聞いた事あるもしれない、柳町、三日町、八日町などの町名は昭和39年まで使われています。
江戸から続いた町名の一部は明治8年に変わります。
松原小路は常盤町、大手小路が錦町、橘小路が橘町、土手小路が桜町、中殿町が春日町、山田町筋新道が紅梅町となりました。
私に取ったら馴染みの薄い〇〇小路というような町名は武家地だったところです。
甲府城が城としての機能を持たなくなり、武士も居なくなる。すると、新しい町が誕生するわけです。町名は新古今和歌集などからとった雅な名前です。
明治17年にこれらの町や八日町、三日町、柳町など、甲府駅より南側の町は甲府総町としてまとめられました。北側は上府中組です。
明治35年の甲府市全図です。甲府市が出来て13年後のもの。
甲府の柳町の原正さんが製図画作して、八日町の英美堂さんが印刷、甲府の柳町の芳文堂さんと今も続く甲府の老舗本屋さんの柳正堂さんが発行と記してあります(個人蔵)
当時の人口は31,128人で、家の数は6,855戸でした。 甲府は小さな領域です。
甲府の駅前。
武田神社周辺は甲府市ではなくってこの時は相川村。
稲門村の朝気は甲府市街に入ってなくて、
畑?だったのかな? 何もなかったのかな?
今の上石田や下石田とかは全部国母村。
善光寺周辺は板垣組、東光寺周辺は東光組。
そういえば、昔、善光寺の周辺を「板垣の里」っていってたのを聞いたことありますが、そんな地名はないしなーなんて思ってたんです。そうか、これが由来だったか!と納得できました。
車のない時代、これくらいがちょうどよかったのかもしれないですね。
みなさんが住むところは、いつから甲府市になったかちょっと調べたら面白そうですね。
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