開府500年を記念して、甲府のワイナリーで甲府のぶどうから作られたスパークリングワインで
2018年―2019年の年またぎに乾杯しました。
明治時代の人たちがこの様子をみたらさぞかし驚いたことでしょう、自分たちの努力が実った証に!
「ああ山梨の、甲府のワインが、そんな風にみんなに飲まれるようになったのか!」って。
甲府でなぜスパークリングワインで乾杯か?「山梨といったら、ワイン!」と言われるのがどうして明治時代の人と関係あるのか。知りたいと思い少しお勉強してみました。
この御髭の青年。
明治6年、山梨県令に着任した藤村紫朗、28歳です。県令とは今でいう知事に当たります。
明治。
将軍と大名という武家が支配していた江戸時代の様式や制度を一変させた時代です。長く続いた江戸時代に染みついた制度や慣習は明治が始まってすぐさま変わる訳もなく、旧藩主が治め租税を徴収する幕藩時代と変わらない状況が全国各地でしばらく続いていました。
新政府に課せられたのは、版籍奉還から廃藩置県、封建家臣団の解体、土地売買の解禁、地租改正、富国強兵。殖産興業を唱え先進諸国と肩を並べられる近代国家を建設することです。
明治維新の改革はそれはそれは難しくパワーを要しました。そのパワーとは志でもあり、それらを支えるための「お金」でもあります。
幕末の甲斐の国は、山梨、八代、巨摩、都留の4郡に分類された788村と私領・田安家領地103村がありました。明治元年1月に鎮撫府、明治元年11月に甲斐府、明治2年7月に甲府県、明治3年に田安領が甲府県に合併し、明治4年11月になって廃藩置県で改められ「山梨県」となりました。そんな目まぐるしい情勢のなか県令・藤村紫朗は殖産興業の必要性を説きます。山梨でお金を稼ぐために「蚕糸」「絹織物」「紡績」と「ブドウ栽培」を重点的に発展させようとします。
蚕糸とは絹糸のことです。桑畑を増やし、かいこを飼い、繭から生糸にする製糸工場を作り、生糸から絹織物を作る。この巨大な産業ループをここ山梨県下で繰り広げるのです。
明治7年、甲府に巨大な勧業製糸場を完成させます。
200人繰りの製糸器機を備えて甲州産生糸の名を一躍高め、県下の製糸業に一大革命をもたらします。その大きさは、世界遺産になった富岡製糸場に次ぐ巨大なものだったそうです。
残念ながらこの勧業製糸工場は火災により焼失してしまいます。ただ、そこで終わりではなく、藤村県令は再起、再建のために国からお金を借り製糸場を復活させています。
この勧業場をモデルとした民間製糸工場が山梨県下にできます。多い時には101工場あったそうです。製糸工場が新・増設され生産量が増えると、山梨県下の桑栽培、養蚕に携わる農家も増えていくわけです。これこそが県を挙げた殖産興業と言えます。
甲府市教育委員会がまとめた「甲府の歴史と文化」に明治16年当時の甲府市内の製糸場が載っています。
明治15、16年は日本は深刻な不況でした。ですので明治16年はその不況の大打撃を受け、経営が大変だった頃のリストです。小さな工場は淘汰され工場は半数ほどに減りました。
県下で53工場、そのうち23の工場が甲府にありました。それでもそれぞれの工場の雇用の人数を見ると、製糸場が甲府・山梨の経済をいかに支えていたかが伺えます。
舞鶴城公園の片隅にこんなプレートが埋めてあります。勧業試験場跡です
これが殖産興業の「ブドウ栽培」を奨励した証でもあります。是非どこにあるか見つけに行ってみてください。これ以外にもその県立の醸造場で使われていた井戸もあります。
開国、文明開化で西洋化を目指す明治政府はワイン造りを全国各地で始めます。藤村県令は山梨が日本固有のブドウの産地であったことからいち早く加工し、生食だけでなくワインとしても流通させることに目をつけます。
品質を向上させ、流通させるために量産をして経済を支えるために甲府城内に、官営の勧業試験場を設置します。
実は甲府の二人の青年がこれより前にワインの醸造を始めていたという話はこちらのリンクにわかり訳す書かれているので読んでください。→日本初のワインの醸造を成し遂げた甲府の青年の話
山田宥教と宅間憲久という青年二人のワイン造りは終わりを迎えましたが、その流れを受けて、試験的なものから一歩進め、県立葡萄酒醸造場を建設しています。そして、藤村県令が提唱し民間の葡萄酒醸造場ができはじめ、飛躍的に葡萄酒が山梨の産業となっていきます。
明治20年くらいになると日本各地にできた官営の醸造場は払い下げられ民間が主導した葡萄酒醸造場ができます。日本ワイン誕生考(仲田道弘著)に
「山梨は大日本山梨葡萄酒会社・土屋合名会社(現まるき葡萄酒)・宮崎醸造所(現・メルシャン)が派生・・・中略・・・県内経済人から出資を募り当時国内最大規模の甲州葡萄酒株式会社(現サドヤ)を甲府に設立するなど、大正4年までに県内各地に40を超えるワイン醸造場ができる」と書かれています。
これは昭和の初めのころ出された広告です。まるきさん、サドヤさんが載っています。
こうして、醸造場が山梨県内に増えるわけですから、これも養蚕ー紡績と同様、量産をまかなう葡萄の収穫量がなくてはなりません。
今はブドウ農家を甲府であまり見かけ無くなりましたが、甲府の甲運地区を始め、善光寺、東光寺のあたりまで葡萄が栽培されていました。これらの地域には葡萄酒醸造の組合などもありました。
私が子供の頃、愛宕山くらいまでも葡萄が作られていたのを覚えています。
武田神社のお堀から酵母を採取し、山梨大学のワイン研究センターでワイン醸造にあう酵母を抽出し、甲府のサドヤさんで白のスパークリングワインとドメーヌQさんで赤のスパークリングワインを作りました。甲府産の甲府スパークリングです。
現在は海外にも「甲州」の名前でワインが流通し、そのカテゴリーが確立されていますし、県産ワインはあちらこちらで飲まれています。各家庭の食卓に上ることもあります。
もし、明治期の先取的な取り組みがなかったら、どうなっていたでしょう。現在ある日本ワインは別の運命をたどっていたかもしれません。そして「山梨のワイン」と言われるこの産業はまた別なものになっていたかもしれません。
甲府という場所でなぜ「ワインか」は歴史を知るとわかる事かもしれません。ワインの発祥の地である甲府で開府500年をお祝いして甲府産のスパークリングワインで乾杯できたんだということがわかり、感慨深く思います。明治の殖産興業のおかげです。
そしてなにより、一人の明治期の県令の旗振りのもとに努力したことが、100年以上たったこの山梨の今を支える産業の一つでもあることに驚きます。そしてそれを作り出した事実にリーダーシップの大切さを思い知らされます
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