舞鶴城公園にそびえ立つあの塔が明治期に山梨に壊滅的な被害をもたらした大洪水を後世に伝えるための物であることを知る人がどれだけいるだろうか。
ここ甲府は四方を高い山に囲まれ、災害が少ないと「今」は思いがちだが、歴史を辿れば、そうではない。
明治期は水害との闘いだった。
明治期だけでも記録に残る水害は35回ある。
いくつかの記録を集めた。
明治31年(1898)9月5日から7日、大風とともに台風襲来。笛吹川堤防が決壊した。
甲運地区浸水80戸
玉諸地区浸水243戸 田畑冠水210ヘクタール
山城地区家屋全壊52戸
浸水447戸
田畑冠水520ヘクタール
御岳町で家屋敷数戸及び金桜神社燈篭数十基流出
明治39年7月15日、16日の両日豪雨襲来。荒川三ツ水門付近が決壊。太田町以南は水深7尺(2m強)に達した。いかだを組んで罹災者を救出した。
笛吹市に隣接する現在の川田町の写真。当時の地名、甲運村川田の被害を捉えた明治40年の様子だ。やるせなく人が佇んでいるように見える。
明治40年8月21日から25日まで、実に5日間も降り続いた豪雨は、甲府で315ミリを記録(甲府の8月平均雨量156ミリ)。県内大小河川のすべてが氾濫した。甲府は甲運、国玉、高橋方面が被害が多かった。当時の周辺農村の家の造りは氾濫に対して脆弱であるのはわかる。
山城村(現在の小瀬周辺)では船での救出となった。ここは川ではない。後方をみると一隻に何人もが乗っている。
小瀬のあたりの家には昔は船があったと聞くが、頻繁に水が付くところだったのかもしれない。
峡東一帯は特に被害が多かった。石和(現・笛吹市)付近では笛吹川がその川筋を変えてしまった。
甲運橋は流失。笛吹川に鉄線を架け、家屋が流されてしまった石和の住民に向け甲府側から滑車で医師、食料、衣類を運んだ。
このとき、濁流に追われた人たちが必死によじ登った柿の木がある。96人が一本の柿木にしがみついた。
3日間飲まず食わずで柿の木の上で、水が引くのを待った。
この木の所有者の奥さんは木の上で産気づき、無事出産した 。奇跡の柿の木と今なら大きなニュースになるかもしれない。
この豪雨の被害は山梨県全域で死者232人、壊されたり流された家屋は1万2千戸。
明治43年の8月上旬は大雨が続いた。8月9日から10日にかけ大洪水が甲府を襲った。荒川にかかる荒川橋、飯豊橋、千秋橋を押し流し、相川も飯田橋付近で決壊。その濁流が市内に流れ込んだ。
泉町(現・相生1丁目)の浸水の様子だ。相生1丁目は平和通りを下り新平和通りから荒川の間に広がるエリア。荒川左岸に隣接している場所。
濁川、藤川も氾濫し市の南西部、東部に大きな被害がでた。このときは春日小学校(現・舞鶴小)遠光寺などが避難所になり、多くの人命を救った。
甲府市の全戸数の3分の1にあたる3367戸が床上、床下浸水の被害を被った。
御岳町は土砂崩落で30戸埋没。
大正年間から昭和初期は比較的大きな水害はなかったものの 、昭和も戦争期に入れば水害の被害が多くなる。これは戦争によって山林を乱伐したのが原因だ。
昭和10年9月21日から26日にかけて台風の影響で大雨。その雨量は490ミリに達した。荒川が各所で決壊。長松寺橋、千松橋、千秋橋が押し流された。山宮、千塚、池田方面での被害は多かった。
昭和20、22、23、24、25年と、終戦からは毎年のように水害が起こった。
戦災復興のため周りの山の木々を伐採したのが原因だ。
考えてみれば昔は木を伐り、それで家を建て、炊事もその木で行った。木炭も木から作られる。山の木々はようは石油や石炭にとってかわるまでは庶民の大切な燃料であり、資源である。明治から昭和の戦時下、戦後にかけて乱伐が続くのは理解できる。
そして、昭和34年にとてつもない勢力で山梨県を直撃したふたつの台風があった。台風7号と伊勢湾台風だ。記憶にある人もいるだろう。
8月14日朝、台風7号は甲府盆地を北上。瞬間最大風速43.2mを記録し甲府は戦災に次ぐ大被害を受けた。
死者5名
家屋全壊365戸
家屋半壊1746戸
床上・床下浸水1075戸
屋根を飛ばされた家6112戸
水田埋没56ha
水田冠水2100ha
罹災者2063世帯8984人
被害総額12億3600万円
甲府市の9月の広報にその被害について書いてある。
傾いた善光寺。ちょうど修理工事中で足場が組み立てられていたため、かろうじて倒壊は免れた。
続いて9月26日。伊勢湾台風が襲った。
被害
家屋全壊60戸
家屋半壊167戸
床上・床下浸水87戸
一部破損6260戸
銀座通りのアーケードはその風雨の勢いのために降り曲がった。
台風一過、全壊した家を片付けるのは高畑の人達。
人の強さを感じる。
昭和41年7月22日、甲府を襲った集中豪雨はわずか2時間半余りの間に北部山岳地で400ミリを超える雨量となり、相川が氾濫した。
竜雲橋は真っ二つに割れた。
横沢町(朝日3丁目)付近の民家は10日も泥に埋もれたままだった。
死傷者58人、家屋全壊25棟、床上浸水1486棟。被害総額は43億7千万円。
復旧作業には特別出動の自衛隊を始め、自治会、婦人会、学生、市職員全員にあらゆる団体機関が普及作業に精をだした
災害救済のために明治天皇は明治44年3月11日、山梨県内にある天皇家所有の土地である御料地のほとんどを県民の暮らしの復興のため、本県に御下賜された。これが現在山梨県の面積の3分の1を占める県有林の基となっている。
明治天皇の御下賜を感謝する事と共に、明治に起きた大水害の歴史を後世に伝えるためにここが最適と選びこの塔が建設された。
今では建物の陰に隠れてしまい、甲府市内、山梨県内の他の地域から望むことができなくなっているかもしれないが、謝恩碑は史蹟の中に建つ。甲府城という県内最大の構造物の本丸、そこからさらに30メートルの高さで存在感を示す。
この地に災害が起こった事を知っておくことが命を守るための行動につながるのであれば、過去を知る事、周知する事も防災の一つになる。
今から100年以上も前に、より多くの人の目を引く場所を選び、大洪水の記憶を後世に伝えるこの塔を建造した先人の手紙を今、受け取った気がする。
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