平和があるから究められる道

舞鶴城公園の二の丸にある武徳殿。


土曜朝の自主練の様子を突撃訪問で見せていただきました。

窓から甲府城の石垣、そして甲府の街を見下ろすこの武徳殿。格天井が見事な白木社殿作り日本葺きの見た目と、そこで練習をする人たちの醸し出す雰囲気と相まって「道場」という名がふさわしい建物です。


甲府の歴史、山梨の歴史を豊富な資料から深堀している峡陽文庫さんのブログに武徳殿の歴史について書かれています。

甲府城址、舞鶴公園内「二の丸」に建つ武徳殿は、大日本武徳会山梨支部武徳殿として昭和7年9月に着工、同8年3月に竣工した建物である。  昭和20年8月にGHQの占領施策により大日本武徳会が解散させられた後、山梨軍政部により建物は接収された。


もしかしたら私の他にもいるかもしれませんが、武徳殿はてっきりお城の建物と思っていました。子供の頃からここら辺で遊んでいましたが全く違うということを知ったのは大人になってからです。


こちらの写真

舞鶴城の天守曲輪に続く石段に座して撮られた写真は総司令官の旗、南軍、北軍の司令官、参謀の襷をかけている人達、竹刀を持っている姿が写っています。これは今から78年前、昭和16年、剣道の野試合後に撮られたものです。

この年12月8日に太平洋戦争がはじまりますが、木々が茂る景色からみると開戦前と推測されます。



今年の信玄公祭り・甲州軍団の出陣の翌日、同じように防具に身を固めた剣士が各地から参集しました。現在も舞鶴城公園で大野試合は開催されています。

子供から大人まで、海外からいらした方も参加していました。

剣道、短剣道、銃剣道の異種試合もありました。試合に臨む人のその気迫たるや!

佇まいから武士の姿が連想されて、なんともかっこよかったです。

かつては南軍、北軍の野試合でしたが、平成最後は東軍、西軍に分かれて合戦。頭の上につけた風船めがけ思いっきり面を攻めてました。

武士のたしなみは、武術。


武術ができるから武士です。


江戸時代、甲府の勤番士には武術の試験があったそうです。それに合格しないと武士として採用されないという今でいう就職試験のようなものだったそうです。

試験は弓術、馬術が主流でその他、槍術、剣術、柔術、居合、薙刀、杖(棒術)、捕り手(捕縛術)、鉄砲それに学問です。

(こうふ開府500年記念誌 甲府歴史ものがたりP45.46)


時代劇の影響でしょうか、武士というと刀で人を斬るというイメージがあります。しかし武術は弓、馬が主流だったそうです。馬に乗って弓をひく。至近距離に入って刀で首を狙う。これが、武士の世界です。これを書いていて現代に生きててよかったとつくづく思います。


平和な時代が続いた江戸時代。

平和が続いたおかげで剣道という剣の道が大成していきます。

人間形成を目指し、技術論のみでなく生き方に関する心法として確立されました。

剣道は甲府御役所(甲府代官所)や市川御役所(市川代官所)に届け出て行われていました。武田の時代の浪人や甲府勤番士による剣道は頻繁に行われていました。


実践的ではなく、平和があったからこその剣道ですね。こういった流れが、武士道という精神的なものの形成につながったのかもしれません。


廃刀令が出された明治時代に剣道は一時衰退しますがこの舞鶴城公園の二の丸で大きな試合が行われます。


大正天皇が皇太子殿下だった頃の「東宮殿下山梨行啓」時の台覧武道大会です。


「東宮殿下行啓 記念 繪はがき 山梨懸廰發行」

山梨県庁発行のはがきを包む表紙です。

鳳凰、ペガサスの紋様、葡萄がデザインされています。

はがきには菊の御紋と御真影。山梨県の印。


旧制甲府中学校(現・甲府第一高校)、甲府商業高校(現・市立甲府商業高校)、師範学校、矢嶋、草薙製糸工場、武田氏館跡など、甲府を始め県内各地を巡りました。

こちらが大正期の矢嶋組。矢嶋製糸場など7工場、総釜敷1424釜を有する県下最大級の製糸工場でした。

こちらは「JAPAN RAW SILK KOSHIU KUSANAGISHA」大日本甲州 草薙社の輸出品につけられていたマークです。

矢嶋製糸も、草薙社もそうですが、横浜貿易市場に現われ、海外輸出が盛んでした。英字表記からもわかります。


殿下行啓の目的は、陸軍近衛師団幹部演習のご見学でした。

御滞留されたのは甲府城の中の機山館。

機山館は今の甲府城の稲荷曲輪に建っていた公会堂です。青少年科学センターがあった場所と言ったらピンと来る人がいるかもしれません。

「東宮殿下 御旅館」のはがき。東宮殿下行啓記念の甲府市章印。

こちらは、機山館遠景と君が代。

この御滞在の時、殿下は剣術、柔術各5試合、銃剣術36試合、計51試合をご覧になったそうです。その時審判に当たったのは28歳で剣道教師に迎えられた甲府市元柳町の島田喜之助でした。

係の人が多くの試合を見るので殿下の疲れを慮って急いで競技を進めようとしました。しかし皇太子殿下は、侍従に「非常に面白いからゆっくりやってみせよ」と伝え、熱心にすべて観戦されました。この台覧武道大会が行われた場所は甲府城の二の丸です。

(山梨県立博物館研究紀要・明治45年3-4月皇太子(大正天皇)山梨行啓について 小畑茂雄 より)



この行啓は明治から大正に変わる4ヶ月前のこと、明治45年3月27日から4月4日でした。明治45年といえば明治の最終年。行啓から4ヶ月後、皇位継承をして、皇太子殿下は大正天皇となられました。

今年は、令和元年。これから平成から令和の皇位継承の大行事である大嘗祭が執り行われます。

同じように昭和3年、大正から昭和へと変わった時に即位式と大嘗祭というふたつの儀礼をセットにした皇位継承の儀礼である御大典が国家的なイベントとして盛大に行われました。


昭和の御大典は、昭和3年11月10日京都御所における即位式を皮きりに行われ、記念事業が各地で執り行われました。ここ甲府に建つ武徳殿もその記念事業として建設されます。昭和8年に竣工します。台覧試合が行われた甲府城二の丸にです。

昭和7年発行の「甲斐景勝写真帳」より。これは竣工まじかと思われます。

完成記念武道大会では明治45年の台覧試合で審判をした島田喜之助教師と今井新造5段の試合が行われました。神業ともいえる絶妙の技に観衆は沸いたそうです。

この時梨本宮殿下の臨席を賜っています。当時は、武徳殿に玉座が設置され観覧席もあったそうです。


武徳殿が建つ甲府城二の丸。そこは山梨の剣道の歴史そのものです。

武徳殿の完成以来、剣道に関する諸大会、行事は全て武徳殿で行われ、山梨の剣道は盛り上がりを見せます。


こちらは昭和初期の剣道野試合の様子です。遊び心がありますね、まさかの道路で野試合です。大激突です。

向こうに見えるのは有信銀行。場所は柳町。現在の銀座通り東の交差点で中央4丁目あたりです。吉字屋さんのガソリンスタンドのところでカメラを構えている感じでしょうか。

有信銀行は昭和16年12月1日に現在の山梨中央銀行に繋がる第十銀行に合併しました。これはそれ以前に撮られたものと推測されます。もしかしたら、集合写真と同じ時かもしれません。


こうした写真からも、特に道路を閉鎖して大野試合ができると考えるとそれだけ剣道が人々の生活の中に浸透していたと想像できます。


しかし残念なことに剣道は不遇の時を迎えることになるのです。


昭和16年12月9日の山梨日日新聞

”「宣戦の大詔渙発」 只今十一時宣戦の大詔を渙発あらせられた”

太平洋戦争が開戦します。

昭和17年岡島デパートに張り出されたシンガポール陥落線勝祝。

富士山を目標に本土に侵入するB29。


昭和20年甲府、七夕空襲。


焼け落ちた甲府。

紅梅町付近、現在の岡島デパート北側。

日本は無条件降伏。

昭和20年 8 月から 昭和27年4 月、GHQ(連合国最高司令官総司令部)による占領下に。


戦災後の甲府。

MIDORI STREET OTA STREET。現在の遊亀通り、青沼通り交差点付近。

戦後、

GHQは民主化と同時に非軍事化を進めました。

そのひとつに、武道の禁止がありました。


武道のなかでも剣道は軍国主義の一端を担ったと思われていたため、全面的に禁止されました。名前を使う事すら許されませんでした。 

当然、武徳殿の母体である 大日本武徳会に解散命令を出し、全財産を没収しました。武徳殿も接収されました。

名前を使うことが禁止されているので、昭和25年全日本撓(しない)競技連盟が発足します。山梨にも昭和26年山梨県撓競技連盟ができます。「しない競技」という新しいスポーツとして剣道に近いものを考案、剣道の復活を別の形で模索していました。


武徳殿で剣道の稽古を主任として教えていた渡辺先生が軍政部に来訪して、日本剣道はスポーツで 剣道だから始めさせて下さいと申し込みました。……アメリカのフェンシングの方式を取り入れて、試合場は10m四方に白線を引き竹刀は八ツ割のものに袋をかぶせ袋竹刀で戦い白と赤に別れて採点板をそなえて一本をとるたびに厚紙のような大板をめくっていき1、 2、3、4と採点して点の多い方を勝ちとする方式で許可しようということになりました。 

(月刊「剣道日本」1995年10月号 島田里「フェンシング方式で進駐軍に見せた」より)


そんな時代ですから、剣道をしたい人達に練習場を提供することも憚られいました。甲府の地で道路を閉鎖して野試合をするほどの盛り上がっていた剣道。竹刀を振る事、稽古をする場所すらなかったのです、ただし、甲府のある場所を除いて。


昭和24年。

「この教会は私のものではありません。あなた方のものです。ご自由にお使いください」


甲府カトリック甲府教会のオサリバン神父が教会を練習場にと提供したのです。昭和24年のことです。

イタリア・ミラノ外国宣教会の管轄の教会でGHQの目はここには及ばなかったのではないでしょうか。戦禍を免れた教会で、剣道愛好家たちは人目をはばかることなくしないを振る事ができました。その愛好家たちの多くは剣道の強豪、甲府商業高校の出身者だったそうです。 

剣道の稽古に励む仲間は日に日に増え、山梨県内最古の剣道団体が発足しました。


教会への感謝から「聖」の字をとって名付けられた聖心剣友会は今年、発足から70年を迎えました。


幾多の時代を経て、武徳殿が甲府城にあること、剣道が幾多の苦境を越えて続いていること。


平和があるから、当たり前と思っていることが続いているんですね。


これからもずっと、その道を進むことができますように。

平和を願う終戦74年目の夏です。

KOFU500 Heritaging

2019年に500歳のお誕生日を迎える甲府のまち。 歴史と今をこうふコンシェルジュが勉強していくっていうページ。 「こうふ開府500年公式ホームページ」のこれは影武者サイトです♪ なかなかない機会なのでこの際、いろいろ楽しみたいなーって思っています!一緒にいかがですか? 甲府にある味わい深い、建物や場所、時代を超えて価値あるものを紹介します!歴史の事でない、「今」ももちろん!