無形民俗文化財の「中の人」になる。


中の人になる日が来るなんて。しかも、山梨県指定無形民俗文化財の。


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と、このKOFU500Heritaingの紹介文を書いたのが 2017年6月1日。2年が経ちます。

知ってほしい事、新しく知って驚いた事を含め、フェイスブックに載せるものとはちょっとだけ区別して書いてます。

開府500年をきっかけにありとあらゆる年代の方と会わせて頂き、おかげ様で色々なシーンを見てこれました。日々経験、勉強をさせていただいてます。その経験はいずれも貴重なものばかり。感謝です。


令和元年5月3日と4日の両日、金桜神社にて「黒平能三番特別公演」が行われました。実はここで、私は生まれて初めて「中の人」になったのです。

能三番(のうさんば)は甲府市の最北端に位置する町、黒平町に伝わる伝統の神事芸能です。上黒平に伝わるものと、下黒平に伝わるものとがあります。

800年以上という歳月を伝承されてきています。一度、このブログでも書かせていただいていますので→詳しくはこちらをご覧ください


こちらは黒平町の上黒平の集落です。ここが甲府最北端の集落です。

上黒平の能三番は黒戸奈神社に伝わっています。集落を奥に行くと、朱い社殿が出てきます。

社殿脇の彫刻が見事でした。

入り口には黒平の能三番が県指定を受けたことを記す看板が建ってました。

この山の奥深くにあるとは思えない佇まい。社記に記されているだけではない、深い歴史があるのがその姿からも伝わってきました。



こちらは下黒平の集落です。

集落にはおいしいお蕎麦やおほうとう、山菜、きのこなど、地の物を出してくれるお店やキャンプ場であるマウントピア黒平があって、これまでも比較的通っていました。味噌づくりのイベントなども開かれています。

下黒平の能三番は集落内にある大山祗神社に由来するものです。私は下黒平の能三番で小鼓をすることになりました。中鼓1人と脇鼓2人の計3人で務めます。私は脇鼓です。


細い道を進み、細い階段を上り山の上に鎮座しています。社殿の前で演じさせていただく事をご報告しました。

山梨県指定文化財になったのは昭和35年と、たった60年ほど前ですが、能三番が続けられてきたのは800年強という歳月。否が応でも神聖な気持ちになります。神事の一端を担うことの重みを神社を参拝したことで実感しました。


5月3日朝、金桜神社の本殿の真ん前にしつらえられた舞台を念入りに掃除し、浄めました。

迎えた本番。定座についた時の表情は、会場にいた両親さえも、見たことない表情だといってました。

畏敬の念を覚えていたというほうが正しいかもしれません。

翁、千歳、黒木尉とそれぞれの演舞を後ろから見つめることの意味。

今のように映像があれば記録しそれを観て演じればいいのかもしれませんが、平安の昔から村のなかの長男に伝えられてきたものです。834年の長い歳月、口承され変化をしながら今に繋がれてきました。時には演じる人によって違ってくるところもあったと思います。


黒平の地で、村外不出。長男のみ伝えられてきたというルールは様々な当時の背景があると思います。


甲府市史を読むと、

黒平は江戸時代将軍が鷹狩をする鷹を育てるための御巣鷹山が8か所あり黒平の住民は巣守を義務付けられていた。

その山々に他の一般人の出入りが禁止されたいた。

そ子は水晶が取れるから採掘には許可が必要であった。

金峰山頂に祀られた蔵王権現にその道中の村々が奉仕するつとめがあった。

黒平の土地の中でお仕事も生活も完結していた時代も長く続いていた。

そうした歴史を考えれば、集落に住む人が少なくなったという現在の事実だけで捉えるのはちょっと無理があります。ですから、他の地域の人が支えていくのは変化する歴史の一つの事象です。現在は上黒平の能三番も、下黒平の能三番も黒平の方、ルーツがある方、村外の方たちによって支えられています。



動画を頂いたので編集しました。

上演は45分以上になりますが途中までの25分ほどです。途中から撮影がきれていたとのことです。

動画に残す事もこれも今すべきことの一つでもあるかと思います。いつかフルで上黒平も下黒平も動画に残したいなと思います。


昭和35年、「第三回山梨県郷土芸能総合公園」で上演した時の資料を転載します。


 下黒平の「能三番由来記」によると、文治元年菊月20日、藤原朝臣房秀が一族郎党と共に都を逐われて下黒平に亡命し、小字原に大山祗命を祀り、毎年正月14日、神前に奉楽演舞したものが子孫代々受け継がれて今日に至ったとあり、神霊を慰めると共に、郷内の五穀豊穣、天災、悪疫ならびに邪悪をはらい、各戸の安全を護るものとして、房秀が伝え遺したものであるという。峠無効の東山梨郡西保地区の塩平、赤芝、北原、膝立の各集落に伝わる三番叟も同じものだとまではとかれているが、これらと結ぶ伝承は何一つ泣く、ただこの周辺にはひとしく藤原姓を名乗るものが多いという事実があるだけである。
能三番は、1月14日の道祖神祭りに際して行われるが、特別に舞台はなく、前年中に結婚、あるいは新築した家の座敷を「やど」または「とうや」として練り込み、一連の芸能のはじめに演じられてきたものであるが、今は下黒平公会堂を舞台として行われている。これに参加するのは集落に生まれた青年たちで、創始されてからこの方、太平洋戦争中の数年間休んだほかは、一年として缺かすことなく、今日に至った。もつともこのほか、3月7日の大念仏が終わって後、三番、万才、七福神を演じたこともあるというが、小正月ほど大規模のものではなく、また昭和に入ってから御岳金桜神社、甲府市その他で公開したことがあるが、これは例外であつて、村外不出がはじめからのかたい掟となつている。

能三番の行われるまでの次第は、14日夕刻、お山飾り、五色の吹流しに彩られた道祖神祠前で獅子舞(神の舞、かまくら、劔の舞)を奉納したのち、道祖神の御神木を先頭に行列を「やど」に練り込み、能三番を演じ、次で次のような芸能を次々に繰りひろげたものであった。
1、 檜万才
2、 婿入万才
3、 頼政葛
4、 お半長右衛門
5、 お染久松
6、 獅子舞
7、 同狂ひ
8、 七福神
9、 裾野鳥さし
以上が古来の例であるが、最近では能三番のあと他の芸能は映画にかえられる場合もすくなくない。なお翌15日は、一同道祖神祠前に集まって神の舞を演じた上、村内各戸を廻ってはらいきよめ悪魔よけに神札を配って歩くのである。


能三番の実際

能三番は清めの式からはじまる。まず神の舞があり、次で舞台正面に面箱、太鼓、小鼓、笛、烏帽子など一切と共に、三宝に神酒と塩をのせて供え、一同これに拝礼して神酒をいただき、地謡(頭取)の拍子木を合図に太鼓を打ち鳴らし、それがすんだところで、それぞれ装束をつけ、囃子方から翁、黒尉、千歳の順に座に着くのであるが、囃子方は太鼓(おおかば)1、小鼓3、笛2、地謡1、太鼓1から成る。
能三番の上演のよりどころとしているものは「能三番正本」(安政7申年4月17日)「さんばづつみ党」(安政かのえ申暦正月17日)の二つの写本であるが、演能の実際を正本にたよってみると次のとおりである。

以下 省略  

「第三回山梨県郷土芸能総合公園」(昭和35年3月30日)より引用。







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