「諸説あり」
事物の起源をたどると、この言葉がよく聞きます。
書物なり、なんなり、記されたものがあればそれが起源として認められています。今なら真実がどうかは別としてネットに書き込まれている事がのちの世の証明になるのでしょうか。
甲府市の居住区の最北部に位置する黒平(くろべら)町。
12世帯15人しか住んでいない、標高1000メートルを超える高冷地です。
ここ黒平で、「能三番」(のうさんば)と呼ばれる 伝承芸能が守られています。山奥のこの地に、それはそれは古くから「能」が伝わっているのです。
正月14日(新暦2月14日)に行われる黒平町の道祖神祭りで、前年に婚礼や新築など祝いごとのあった家へ練りこみ舞われます。
「切り顎」という白面(翁)と黒面(黒木)を用いつつみと掛け声、唄で舞う
平安時代末期に藤原房秀によって黒平の地に伝えられたという説、室町時代末期に信濃国佐久の川上村方面から藤原某(なにがし)の朝臣(あそん)により伝来したとする説があります。
京の都で「能」が確立する以前の事ですから先行芸能ですね。
そういえば、この黒平には藤原さんという苗字の方が多いです。
「古老の話しによると、現在村人に藤原姓を名乘る者の多いのはそのためで、上黒平の舊家には系圖書さへ殘つてゐるといふことである」(小田内道久の「黒平の能三番」)
山梨県内にも「源氏の末裔(平家の末裔)が移り住んでいる」という山奥の集落がいくつかあります。まさに諸説ありです。
黒平説はこの「能三番の起源」からきているかもしれません。
黒平の能三番にも、上黒平の能三番と下黒平の能三番があります。
「能三番」は黒平で開かれる「ほうとう祭り」などで披露しているそうです。こちらは下黒平の能三番。
もともとは、各家の長男以外に教えてはならないという決まりがあったそうです。
過疎が進んで、この伝統を受け継ぐ人が減り、現在は黒平に住んでいない人でも黒平と能三番が好きな人であれば保存会に入れるそうです。
安政7年に書かれた「つづみ覚え」という教本。
伝統はどうにか残していかなければいけません。そこに住む人だけでは維持できない「時の流れ」による問題もあります。
ですが、自分の住む場所に「伝統があることを知る」ことも、残すための一歩なのかなと思います。
今回、こうふ開府500年イベント「500日」前に能楽が披露されることで、「甲府と能」のつながりを調べていて「能三番(のうさんば)」を知りました。行ったことがあるほうとう祭りで披露されていても意識をしていなかったのだなと反省しました。
(黒平ほうとう祭りは例年10月第4日曜日です。マウントピア黒平にお問合せ下さい)
舞鶴城の鉄門(くろがねもん)復元イベントにて披露される「能三番」
そしてもうひとつ、知ってほしい事があります。
フェイスブック「こうふ開府500年」に一度書きましたがここに転載します。
甲府城主柳沢吉保、吉里親子は文芸愛護に力を入れていました。能舞台を甲府城内に建設しました。
左下の「楽屋曲輪」の左、①の建物下、追手門の隣です。
特に甲府城に住んだ吉保の子・吉里は能楽を楽しんでいたようです。甲府へ入城間もない宝永7年(1710年)10月末には、吉里自身もこの舞台で能を舞いました。
驚きなのは、この時、家中諸子だけでなく、国中の寺社、町中、道中のものにまで開放して能楽を見物させたらしいです。
当時、城を庶民にまで開放する公共性を帯びさせていたって、すごいなと思います。
今の時代の地図にこの甲府城を重ね合わせると、ちょうど県庁のところです。以前山梨県民会館がそのそばにあったのですから、そのあたりの土地の記憶なんでしょうかね。
さらにさかのぼり武田時代。信虎公は今の能楽の基礎となる猿楽を連日楽しんでいました。
信玄公は猿楽師の大蔵太夫十郎信安を召し抱えました。その息子がのちの大久保長安で武田滅亡後徳川家に召し抱えられて、甲府の再建や初代佐渡奉行として佐渡金山開発、石見銀山開発などを手がけました。
佐渡に能楽の舞台が多いのはこの長安が佐渡に能楽の演者を連れて行ったからだとも言われています。大久保長安の墓は甲府の天尊躰寺にあります。
8月19日開催されるこうふ開府500年500日前イベントでは、本市出身の能楽師・佐久間二郎さんによる能の披露があります。
地方の伝承とはまた違う、都で体系としてまとまり、今まで続けれれて来た洗練された芸能を見る機会です。
今回の演目は能「石橋」。「しゃっきょう」と読みます。
獅子舞の部分は見事で、お祝いの能として知られています。
予習として簡単にあらすじを。
舞台は中国。『石橋』とは、「清涼山( しょうりょうざん)」という山にかかる天然の石の架け橋。
そこを訪れた寂昭法師( じゃくしょうほうし) は、やがてその橋を渡ろうとすると、一人の老人
に止められる。橋の下はまさしく千丈の谷。橋の幅は一尺にも満たない。そこで寂昭法師は危険
を冒すことを止め、しばらく橋のたもとで待っていると、すさまじい雷鳴の中、果たして文殊菩
薩( もんじゅぼさつ) の使いである獅子が現れ、咲き乱れる牡丹( ぼたん) に戯れ勇壮なる獅子
の舞を見せる。
能の中でも代表的な祝言( しゅうげん) 曲で裂帛( れっぱく) の気合による囃子の演奏に乗せて、
白と赤の獅子の扮装をした役者が、舞台中を力強く動き回る。
今回は後半の獅子舞の部分のみの上演で、開府500 年のカウントダウンに花を添えます。
甲府の500年の流れとその時代の空気を、能という歴史ある芸能を通じて武田神社の甲陽武能殿という場所で感じられたらなと思っています。
庶民の間で親しまれ高めれていった歌舞伎とは違う、特別な「能」のお祝いの演目を観ながら、開府500年の500日前をお祝いしましょう!
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