宮中祭祀、明治天皇の即位で選ばれた 甲府の上石田

平成から令和に。

平成の改元の時には、喪に服していたこともあり、積極的に知ることがあまりなかったのですが、このたびはその時とはまた違う目線で改元、即位と退位に伴う宮中の祭祀や皇室行事を見ました。

時の為政者の決定により変わる事は多少はあっても、長い日本の歴史の中で、継承されてきた事や、連綿と受け継がれている儀礼を執り行う様を見て、日本という国の歴史がいかに成り立ってきたか、少なからず感じることができました。


地元の山梨日日新聞を読んでいたら、この記事が目に飛び込んできました。

右下の「宮中祭祀用の道具公開」の見出し。

そこに写るのは亀の甲羅。「斎田点定の儀」の道具です。


11月に行われる皇位継承に伴う重要祭祀の中の主要儀式「大嘗宮の儀」で、天皇陛下が収穫された米を神々にお供えして、五穀豊穣、国の安寧を祈ります。

大嘗祭で用いる米を育てる都道府県を決めるのですが、この亀の甲羅をあぶってできた亀裂で占って決めます。この占いを「亀卜(きぼく)」と言います。

この時東日本で選定された地域を悠紀国、西日本を主基国というそうです。

斎田点定の儀は5月13日に行われます。


甲府の地もかつてこの斎田点定の儀によって悠紀国の斎田に選ばれていたことをご存知でしょうか。


甲府市上石田にある南西第一公園。この公園の隅に碑があります。

「明治天皇悠紀御斎田蹟」

文字は伏見宮博恭王の揮毫です。


明治4年11月に行われた明治天皇の即位大嘗祭をあげるのに先立ち、占いの「亀卜」でここ山梨が「悠紀国」に選ばれました。

時の県令、今でいう知事にあたる土肥実匡はその旨を報じて、現在の甲府市上石田、当時の巨摩郡上石田村仲村の田を斎田と定めました。

 

その水田の四方に木を立て縄を貼り、水田所有者である山田松之丈さんに耕作を奉仕させました。

山田家は武田家臣の裔、名主を世襲の家格を持つ家です。8月成熟を官に申し、9月12日に白川資訓が来て稲穂を収穫し、16日に斎場に納め、つつがなく大任を果たしました。

 甲府市上石田字仲村1809

 面積 6反6畝9歩

 貢米 6石1斗9升3合9勺

 

その斎田だったのがこの「南西第一公園」で、この碑が今も残るその、証拠です。

この碑は大正に建てられました。全国でも数少ない、悠紀田に選ばれた名誉は上石田の人々だけではなく、県民がこれを光栄とし、後世に伝えるためです。


これらのことは副碑に書かれています。

碑文の末にこう記されています。

「維れ甲の州、山峰秀で峙つ。厥水は孔だ清く、厥壌は洵に美し。大嘗を行うに方り、卜いて悠紀と為す。嘉穀穣穣たり、以て天子に奉る。歳月推し移り、遺迹将に巳まんとす。爰に豊碑を樹て、載ち終始を勒む。於虖、州人よ、須く来りて瞻視すべし」


甲府歴史探訪で石田地区の皆さんとこちらに伺った時に初めて知りました。地域の方たちはこのことを今でも大変誇りにしています。


当時、この碑の建設にあたり、村民のみならず、各地の青年団が工事を援助し、県市が補助、有志の寄付、さらには全県下の学校生徒によって事業費を拠出するなど多くの人の協力があったそうです。さらには、この碑の付帯工事として、この碑に通じる道路を整備し村内の橋梁も修繕しこの地域が発展していきました。公園の南側の道は、「悠紀田通り」と呼ばれているのはそれが、理由です。


明治、大正、昭和、平成と時を経た令和に改元された今だからこそ、この事実を知るいい機会かと思います。由緒を知ることは大切ですね。

是非、この公園の片隅の碑をご覧になってください。


 


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