「我等の甲府市は、百に近い町から成っている。
これ等の町々の起りについては、次の5つに区分して観る事ができる」
昭和13年に甲府市教育会が発行した「甲府郷土読本」の16章「町名ところどころ」の書き出しです。
西山梨郡里垣、相川、中巨摩郡国母、貢川の4村と合併したのが昭和12年。昭和17年に西山梨郡千塚村、大宮村の2村を合併するという、市域を絶賛拡大中の頃に発行された本です。
現在の甲府市域とは比べ物にならないほど面積が小さくて、おおざっぱに言うと、今から80年前、昭和12年前までは武田神社周辺や、相川より西、荒川より南は甲府市ではありませんでした。
絵葉書 甲府市街と南アルプス連峰(FINE VIEWS 観光都市・甲府 より)
明治時代が終わってからまだ30年弱、江戸時代から70年くらいしか経っていない頃出版された「甲府郷土読本」
そこに書かれている文面からは時代の流れを惜しむのではなく、町名の変化や街並みの変化を楽しみ、未来に向けたものと捉えています。
当時の街並みは江戸や明治とそれほど変わっていなかったのではないかなと思われます。
昭和20年のたなばた空襲で焼き尽くされて、それをきっかけに甲府の歴史的景観や空気が変わってしまったとしたら、その空襲がなかったら、もしかしたら、まだ甲府の至るところにしゃれた洋館や木造の、瓦葺の街並みが多く残り、風景も様々楽しめていたのかなーなんて、、そんな「たられば」空想をします。
いくつかの時代を超えた今に住まう私は、どうしても昔は良かったはずだ、と望みを持ってしまいます。今恵まれているからこその「欲求」病ですね笑。
せっかくですので何回かに分けてこの「甲府郷土読本」の16章「町名ところどころ」をここに転載します。不定期です。
間に挟む写真は、昭和初期の「甲府郷土読本」が書かれたころの甲府の景色だったり、明治、大正の頃撮影された写真やはがきです。表記がなくて、時代が確定できないものもありますが、周りの建造物などから推測できるものもあります。
我等の甲府市は、百に近い町から成っている。
これ等の町々の起りについては、次の5つに区分して観る事ができる。
今我等が上府中と呼んでいる古府中は、もと府中といって、武田氏が躑躅ケ崎に館を構えた時に起った所である。
写真・昭和初期、桜並木が美しい現在の武田通り
それは現在家々の在る辺から雲雀が囀ったり、穂波に露が重い武田神社前の一面の田畑にまで及んでいたもので、多くは武将の邸宅が甍を並べていた所である。
山交デパートから見た現在の甲府城跡 舞鶴城公園
下府中は柳町・緑町から東方一帯の町々で、これらは浅野氏が甲府城を築いてから新しく開けた所である。
昭和初期の柳町のポストカード。現在の甲府法人会館が左に見える。
人力車に自転車、散水車が水を撒いたのがうかがえる
次に錦町と桜町、それからお城を挟んで、北の朝日町、富士見町等はお城の郭内でその多くは武家屋敷であったが、明治維新後、お城が廃されたので、その跡に開かれたのである。
この郭内に対して郭外である百石・穴切・代官・二十人・富士川・深町等は、代官又は同心・小人の組屋敷のあったところである。
更に若松・太田町以南の地や、飯田・寿町等は、明治初年市の一部となったものである。以上の旧市街の四部分に昭和12年付近の村々を合わせて大甲府市となったことは我らのよく知るところである」
この後はまた次回書きますね。
さて、この文章の中に出てきた、町の名前、
朝日町 飯田町 寿町 太田町 穴切町 桜町 百石町 錦町 二十人町 代官町 深町 富士見町 緑町 柳町 若松町
どこがどこか想像できますか?
区画も違うけれど、おおざっぱに今のまちの住所に当てはめると↓こちらになります。
富士見町って山梨県立中央病院あたり、現在の富士見1丁目、2丁目の付近のことではなく、丸の内1、2丁目、朝日1丁目あたりのことです。
当時はここから見える富士山が甲府市内のどこから見るよりもきれいだったからというのが町名の由来です。このあたりは現在は建物が遮り路上からだと富士山が見えない地域ですね。
富士見町は明治9年までは裏先手小路と呼び、改名された名前です。甲府城の富士見櫓に由来するとも言われています。富士見櫓も、富士を見たのでしょうか。その土地の特徴がよくあらわれています。
次回の「町名ところどころは」は!
「さて時の移り変わりに従って、すべての物は動いていくものである」から始まりますよ!
なんて真をとらえた言葉でしょう!
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