先日、甲府駅前のたこ公園横で開かれた甲府城下町遺跡現地説明会に参加しました。
午前の部は2回に分けて案内されるほど。おじいちゃん、おばあちゃんも、こどもたちも。「こんなに大勢くるなんて!」と県埋蔵文化財センターの方はおっしゃっていました。
この日の甲府も暑く、ヘルメットの下はじわっと汗がにじんでいました。案内をしてくれる埋蔵文化財センターの方の話を聞きながら、江戸の甲府を想像してると暑さのせいか、なんだか自分がタイムトリップしているような、目の前に江戸時代の人々が行きかう姿が見えてくるようでした。
説明を受けていて、気になるものが目に入ってきました。
遺構ではなく、ちょうど、今の地面から20センチほどのところに、明るく見える部分がありました。オレンジ色のその地層、幅は30センチくらいあるでしょうか。
聞きました。何ですか?と。 もしかしたらこれもなにか大発見のような、江戸時代の名残に見えてたのです。
「空襲の跡ですよ。甲府は遺跡調査や工事をしていると以前はよく焼夷弾が出てきました」
黒ではなく、オレンジ?
「高温で燃え尽きるとオレンジになるんです。黒を想像すると思いますが、それはこげた炭の色。土が高温で燃えるとあの色になります。白い破片が出てくることもありますがそれは人間の・・・」
一瞬で瞼がぐっと開く言葉が、私のぼけた頬をパンチしました。
私たちが住んでいるこの甲府のたった、ほんのたった20センチのところに、あの戦争の証跡があると、どれだけの人が知っていて、覚えているのでしょうか。
戦写真は昭和初期の甲府です
何年も何年も、戦争の真っただ中にいたころ。生活が日々変わり、皆が踏ん張っていたころです。
戦地へ赴いていた兵士だけでなく、
若きも、
女性も、老いも、
岡島デパートの前で千人針を作製しているこの少女たちも
いつの日か来る平和と戦地へ赴いた愛する人を待っていた頃です。
そんな人々が住む、甲府に焼夷弾が落とされ、そして、火の海になりました。
それが今から72年前の今日、7月6日。
23時47分から、1時48分の2時間、焼夷弾が甲府に降り注ぎました。
7月7日の未明まで続いたので「たなばた空襲」と言われています。
甲府の夜空を飛んだB29は131機。
甲府に落とした焼夷弾薬970t。
甲府の74パーセントが灰燼に帰しました。
罹災者、甲府の人口の63パーセント。4万4千人。
建物の全焼、甲府の68パーセント。
亡くなった人、1127人。
重軽傷者1239人。
大本営の発表によれば
ー我々の損害 軽微なりー
岡島デパートです。
甲府で一番最初にできたデパート松林軒デパート。下の写真は別方向から見たものです。
県庁西側。手前の道は今の平和通りです。向こうに見える山の形で、どの向きを見ているかわかります。
これは当時のニューヨークタイムズ。
『東京から西方70マイル、海からおよそ22マイルの山岳地帯に位置する人口102,000の甲府は、日本の最も大きい内陸都市の一つであり、山梨県の県庁所在地である。甲府上空の我々の爆撃手は、主要な鉄道、商店、紡績工場、機械工場、兵舎などがつめこまれた長方形の市街地の上に、破壊するための荷物(爆弾)を投下するよう特に努力した』
内陸の大都市、甲府の被害、すべてを焼き尽くしたと記されています。
被害をうけた18094戸。その数に震えます。
焼き尽くされた甲府。人々。
戦争という時代を生きた人々の安寧を打ち砕いた空襲。
それにより、失ったものは多くとも、甲府の人々は数日後には、前に向いて立ち上がります。
太田町周辺にバラック小屋ができ始めた様子です。
奥に見える林が動物園、遊亀公園です。
これは甲府駅南口だそうです。
目印になる建物がないのでわかりませんが、この鳥居があるということは湯権現があるところでしょうか。甲府駅ロータリーのすぐわきのところではないかなと思います。
焦土になっても沸いていた甲府の温泉。
古名屋さんは「ゴ自由ニ入浴下サイ」の看板を掲げお風呂を開放したそうです。
命からがら逃げた人達は手を取り合って、住むところを失っても甲府のまちを取り戻し、自分の生活を取り戻していきました。
私たちが暮らす、この甲府の、たった72年前。ほんの少し前のここに住む人は、敵ではなく、戦争という時代と戦って、戦って、戦って、生き延びてくださいました。
何もないところで歯を食いしばり子どもを育て、生活を立て直した先人。
今の私たちの足元にその事実があります。
身近で戦争という時代を生き延びるために戦い、この時代に命をつないでくれた先祖の為にお祈りをします。
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