甲府勤番と商工会議所と中央線開通。ひな祭り4月3日の謎。

4月になっても市役所の一角にお内裏様とお雛様が飾られています。

「お雛祭りは3月3日」じゃないのか?だしっぱなし?

いえ、山梨のお雛祭りは3月3日でもあるし、4月3日でもあるんです。


3月3日の起源は、旧暦の3月最初にくる巳の日、上巳の節共(句)です。

3月3日と3が重なるのは中国の重日思想の普及からです。桃の咲く季節だから、桃の節句とも言いました。

明治5年に新暦になり、3月3日に咲いているのは梅くらいですよね。


そこで、大正の初め、甲府商工会議所の前身である甲府商業会議所が「新暦の3月3日は桃には早い!だったら4月3日の桃の季節にしよう!」と呼びかけました。養蚕で忙しくなる、農業が忙しくなるっていう事も相まって、山梨県下に広まったのです。


この甲府には、この日付以外にも独自のお雛様の文化がありました。

江戸末期嘉永3年の記録「甲斐の手振」によると、2月下旬から3月の節句までの間には柳町、八日町、魚町あたりに雛市がたったと記されています。

ここで売られていたお雛様は「当国(甲斐)の製押絵多し」。甲州流の押し絵雛というのがあったのです。


この押し絵雛は色とりどりの絹やちりめんの余り裂を寄せ集め、それを髪形や顔や小袖の形に切って厚紙に張り付けて人型に作るもので、布地の下地へ薄綿を張り付けてふっくらと盛り上げて非常に優美なものです。

残念ながら、白黒の資料しか手元になくて、お見せできないのですが、これが甲州名物押絵ヒナです。


江戸中期には押絵雛と同様、平面的な紙雛もあります。

男雛は6センチ、女雛は4.5センチ、ともに小豆色の地の中に翁と媼が描かれています。



甲府の高室町の旧家高室家に伝わった紙雛は和紙に緑色を塗って作られています。孫娘の誕生祝いに親族の家に送られたものです。女の子が生まれた家に親族や知人が雛の節句に贈る習わしがありました。



甲府で流行していた押絵雛は甲府勤番士の妻や娘が手芸として習っていた家もありました。それが、明治維新後、俸禄を失ってしまい、内職として押絵雛を作り仲買商の手で売られたという経緯もあります。
 
まさに、甲府ならではのお雛様の歴史ですね。


押絵雛、紙雛は歴史は古く甲府だけではありません。

もともと平安貴族の幼い姫君たちの間で、男女一対の紙人形を並べて、ままごとに使われました。平安中期の源氏物語にも書いてあります。


紙のお雛様は遊びの飾り物の一方、季節の変わり目に起る災いを紙雛とお供えと一緒に川に流してしまおうという風習が、平安時代には行われていました。病気の子供と一緒に寝かせ、病気を人形に移して流すということもしていたそうです。






では、私たちが知っているお雛様。これはいつ頃からかと言うと、室町時代から。中国の塗料の胡粉がもたらされ、木屑を固め胡粉を塗った立体的なひな人形が作られたのものが原型になっています。江戸の享保年間には30センチくらいの大きさの享保雛などが現れるようになります。



旧家などにはこうしたものが伝えられています。市民レポーターさんが旧家ではなく、周辺の村の農民に伝わったものなどをレポートしてます。こちらも読んでみてください。



では、今、まったく見かけない甲府の押絵雛。なぜ無くなってしまったのでしょう?


そのきっかけは中央線の開通です。


明治36年、甲府まで開通したことで、東京・浅草の人形師が作った現代の市販されているような雛人形が大量に甲府に入って来ました。そこから立体的なお雛様の文化が庶民に広まりました。そして郷土色豊な押絵雛は衰退していったのです。



とはいえ、無くなったとされる紙のお雛様。


形を変えて残っています。
川に流す習俗が神道に伝わりました。
6月30日、みそぎ払いとして甲府の主な神社で氏子さんに配る人型がこれだとされています。と、昭和50年の書物には書かれていますが、この夏の風習さえ今無くなって来ているかもしれません。

そういえば、去年、穴切神社の夏越の大祓に行った母が白い紙の人型を頂いていました。

はて、これはなんだろか?なんて思っていましたが、こういう由来だったんですね。


今年はちゃんとわかったうえで、わざわいを流してもらおうと思います。




KOFU500 Heritaging

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